当たり前を疑え!

わたしは取扱説明書を作る仕事をしていた時期がわりと長くあります。オーディオ製品やファクスやプリンターなどOA機器の裏側を知ることができるマニュアル制作という仕事が好きでした。思えば小さなころから時計を分解してしまうような子どもでした。わたしは時計がどうして動くのか、何が音を立てているのか知りたかったのです。子どものころから『かがくのとも』『○年の科学』『ひみつシリーズ』『なぜなに図鑑』や図鑑や百科事典、そして偉人伝が大好きでした。なぜ、誰が、何の目的でそれを作ったのか、ルールや法律や古代の文化や宗教についても知りたくて、授業をさぼって図書室に隠れて本を読むような小学生でした。

そういう傾向は50歳を超えた今でも続いていて、仕組みが知りたくて調べものばかりして毎日暮らしています。

つい最近、とあるサイトで物理学や医学とスピリチャルをつなぐ学者たちのスピーチの動画を見る機会を得ました。それはとても刺激的で、ワクワクする体験でした。

スピリチャルなことは科学の領域ではないと言われ続けていますが、そう思っているのは一般の人たちだけで、最先端の仕組みを調べている人たちの間ではスピリチャルな世界でのみ取り扱われてきた意識や祈りといったものが物質や人体に与える影響を無視して研究を続けることはできなくなってきているようです。

そのスピーチのひとつで聞いた、「MeToo運動の高まりと同じように、医療現場でのスピリチャルな経験について語られたデータが無視できないほど集まっている」という話はわたしの調べていたことと一致していました。

今まではそれを語ると「頭がおかしい」とか「これで終わりだ」といわれることを恐れていた医師や看護師が、黙っていることに耐えられなくなり、集まって自らのスピリチャルな経験を語っている動画をYouTubeでいくつか見かけています。

わたし自身も「気のせい」、「偶然」、「勘違い」、「そう思いたいだけ」という前置きをしながら、自分の神秘体験を人に話していることではありますが、そう遠くない未来には、前置きなしに話せる日が来るだろうと感じました。

でも、わたしたちはなぜ、オカルトと科学、芸術や哲学と科学を分けようとするのでしょうか。

五感で確認できる以外の感覚、つまり「見る」、「聞く」、「触れる」、「味わう」、「嗅ぐ」のみを真とするのは、それが一見「万人に共通して得られる体験」に思えるからかもしれません。共通性に所属感を覚え、グループに所属することに安心を感じるのは、他の動物に比べて生まれてから長い期間を親に依存せざるを得ない人間の特徴でもあると言われています。

しかし、「赤いリンゴ」を見て「赤くておいしそうだね」と語り合う他者と、共通認識を持っているように見えていて、実はその他者には赤があなたとは全く違うように見えているとしたらどうでしょうか?

認知という分野を取り扱う認知神経科学や認知哲学の最先端では、「自分の見ている赤は本当に同じように他の人にも見えているのか?」という問いには正確に答えることができない、ということが定説になっているのだそうです。外界から目などを通して受けた刺激を神経が脳に伝えることはわかっていても、それを脳の中で主観としてどのように個々人が再構築して捉えているのかということについては数値化することができない、計測することができないからだそうです。

同じものが見えることでそれを共有し、繋がっていると感じ、安心していた人にとっては悲報です。社会的なステータスなどからなる所属グループは時代や流行によって変わってしまいます。最先端の研究により、いまや人類はそれよりも手前にある五感に基づく所属グループの共通項すら不確定なものであると気がつき始めているということになるでしょうか。

反論として、赤が同じ赤ではない可能性があることを証明できるのかといわれれば、同じか同じでないかすら証明できないということが、今現在ある方法では計測できないという形で証明されているということになるでしょうか。ではそれは科学ではないと言われるかもしれません。

しかし、科学が「証明できないもの」を計測不可能であるために「存在する」といいきれないからといって、それはイコール「証明できないものは存在しない」ということもできないようです。調べてみたら、そんなことは100年くらい前から科学者は言っていたようです。

マックス・プランク(1858-1947)という量子論の創始者のひとりである物理学者は、こんなことを言っています。

All matter originates and exists only by virtue of a force… We must assume behind this force the existence of a conscious and intelligent Mind. This Mind is the matrix of all matter.

すべての物質は力によってのみ発生し存在する… 我々はこの力の背後に意識と知的精神の存在を認めざるを得ない。この精神こそが物質の基盤である。

Max Planck マックス・プランク

もう一人の量子論の創始者アインシュタイン(1879-1955)はこんなことを言っています。

Anyone who becomes seriously involved in the pursuit of science becomes convinced that there is a spirit manifested in the laws of the universe, a spirit vastly superior to that of man.

科学の研究に真剣にかかわった人は誰でも、宇宙の法則の中に人間の意識をはるかに超える意識が現出するのを認めることになる。

Elbert Einstein アルバート・アインシュタイン

わたしたちはわたしたちの五感で捉えられないものを軽んじる傾向があります。証明できないものを存在しないと一蹴する傾向があります。虫の知らせがあったりデジャビュを体験したり霊現象や占いやUFOの存在について語ることを恥じます。でも、こういう話はあちこちで耳にします。バカにしたり軽んじているのに、ずっと「目に見えない何か」を忘れられずにいます。

昔から人々が目に見えないものを恐れていたことをバカにし、迷信だと一蹴するのは、目に見えないものをあるとするのが怖いからではないでしょうか?

目に見えないものを恐れるのは当然のことです。たいていの目に見えないものは危険をはらんでいるからです。本能的にそれは仕方のないことでしょう。ものかげに隠れた虎の気配を感じて警戒できなければ襲われて死んでしまいます。怖がることをバカにすれば襲われてしまうでしょう。

古来人間が自分たちの能力の及ばない力を畏れるのは、弱いからでもないし劣っているからでもないようです。それは生き延びるために必要な能力なのだと思います。

もっといえば、わたしたちは赤が相手にどう見えているのか知りえることがないわけですから、わたしたち自身が未知の存在であるといえるかもしれません。未知のものを畏れるなら、自分にも畏怖の念を抱き、知ろうとする必要があるのかもしれません。