信用とは何か

コロナ禍での社会生活を送る中で、信用ということが今ほど強く求められている時期はないのではないかと感じてきました。それについてこの半年ほど考えていたことを書きたいと思います。

今回のコロナ禍のような、世界規模での新しい事態が起きたときには、社会もその構成員である個人も変化せざるを得なくなります。わたしたちは変化の犠牲者として自分を捉えることも変化を楽しむ人と自分を捉えることも可能です。このように、現実とは自分と現実との関係性をどのように定義するかによって大きく変わるものだと思っています。人は相対的にしか物事を捉えられないようにできていると考えているからです。

一番わたしが混乱したのは、欧米諸国の状況と日本の状況の違いでした。どちらかが多すぎるのか少なすぎるのだと感じます。あるいはそのどちらもなのかもしれません。特に東京オリンピックの開催延期決定を境に情報の方向が変わったと感じたこと、志村けんさんが亡くなったことがきっかけとなり、独自にデータや情報を得て自分でしっかり判断する必要を感じました。

でも、情報源は誰を信じて、何を信じればよいのでしょうか。信用できる人とはどんな人でしょうか。そもそも信用とはどういう意味なのでしょうか。

信頼関係とは言いますが、信用関係とは言いません。このことから、信用というのは直接人との関係性には関係がないことがわかると思います。しかし、辞書を調べてみると「信頼できると判断すること」とありますので、信頼は相手との関係性に、信用は自分の判断に重きを置いているということなのかなと思います。

どういう判断をしてどういう選択をするにせよ、選択には責任が伴います。責任とは出来事としてそれが起きるということであって、他の人に許してもらったり肩代わりしてもらったりできるようなものではありません。責任というのは、石を湖面に投げたらそこを中心に水面が波立っていくようなものです。簡単にいえば結果ということになります。

そして、わたしたちには選択しないという選択肢がありません。選択しないと決めたら、選択しないことを選択しただけですから、その結果を受けることになります。

ところが、心理学で学んだことによれば、わたしたちは結果が思わしくないときには自分の心が傷つくことから守ろうとする機構が働き、外的要因に結果の責任を負わせようとする傾向があるのだそうです。でも、自分の選択の結果としての事実を見ないことから被る後々の不利益のことはこの機構は考慮してくれません。それはまるで過保護な親のような機構なのです。

守ることとは違い、信用というのは厳しく結果を求めるものです。短期的になら出せる好ましい結果も、必ずしも長期的にも好ましいものとなるとは限りません。後になって不利益が出てきたら途端に信用を失ってしまいます。

たとえ短期的には好ましく思えない結果が出るとわかっていても、後々に好ましい結果に繋がる選択をするのが信用に繋がる選択です。また、自分の力が及ばないことがあることを認めること、想定外の方向へ行く可能性があることを考慮すること、好ましくなくても起こっている事実を認ること、必要なら訂正できるかどうかも信用に繋がる選択だと思います。なぜなら、長期的な展望を持つということは変化を受け入れて変化しても本来の目的を見失わず、好ましい結果を出すということだからだと思います。

実は、わざと「好ましい」という言葉を使っています。なぜなら「好ましい」結果というところがミソなんだと思っているからです。何を好ましいと感じるかは人それぞれです。先天的に生まれ持った気質と後天的に獲得した価値観で大きく変わると思います。自分が属すると思っている集団の価値観が変わったら、自分も変わらざるを得ません。そのために、今回の大きな変化のうねりの中で、価値観の問い直しを迫られた人が多くいたのではないかと思うのです。何を好ましいとしてきたのか、それを追求していって自分は生きることに意味や希望を見出し続けられるのか。自分とは何者なのか。

それにこたえるのは選択の繰り返しです。選択し、選択の結果を受け、結果の判断をし、新たな選択をします。意識体は常に一貫性をもって私でいるために「私とは○○である」の「○○」の部分を埋める言葉を選び続ける必要があるからです。

こうして見てくると、情報発信者との信頼関係も、巡り巡って自分自身との信頼関係に始まるのだと思うのです。自分が自分のために信用できる選択をしている限りは、「自分は誰を信用するか判断できる」と自分を信用できるようになると思うからです。

「可愛い子には旅をさせよ」といいます。自分可愛さで過保護になるのではなく、愛情ある厳しさで自分を律して、自分の心が傷つくことを恐れて外的要因に責任を負わせていないか、目先のことにとらわれていないか、未来の自分のためになることを選べているか、自分の選択によって利益を得る人を増やす選択ができているのか、そのために目の前の事実を見極めているか、ということを常に自問できるようになりたいものだと思います。