好きの反対は嫌い?

過去30日間のこのブログに到達した検索用語のトップに躍り出た「フィロジニー」という言葉があります。長いことトップの座をゆるぎなく守っていた「大和なでしこ 芯が強い」や先月なぜか突然アクセス数が伸びた「相対性理論 弁証法」を抜きました。フィロジニーで検索してたどり着くブログ記事は「【勉強会報告】ジェンダーバイアスの勉強会」です。フィロジニーについてはなにも書いていないので、たどり着いた人はがっかりするかもしれないですね。

フィロジニー / Phylogeny

一応今度はちゃんと調べたことを書いておきます。
フィロジニーとは、ギリシャ語で、フィロ=愛するという意味の言葉とギュネ=女性を表す言葉からできていて、直訳すれば女性愛好、女性賛美とでもいえばいいでしょうか。反対語はミソジニーといい、フィロ=愛するに代わってミソス=嫌悪するという意味の言葉がついています。余談ですが、男性版はフィランドリー、ミサンドリーといいます。アンドロが男性を表す言葉です。

フィロというギリシャ語は他にフィロソフィー(哲学)やフィロデンドロン(観葉植物の名前)やフィロロジー(文献学)、フィロビブリスト(読書家)などがあります。フィロの反対であるミソスを意識したフィロではなく、「好きでも嫌いでもないもの」がたくさんある中で、自分をワクワクさせ、楽しい気分にさせ、夢中にさせ、寝食を忘れさせ、生きている喜びを感じさせ、幸せを感じさせてくれるものであるという主張だと思われます。ちなみに観葉植物フィロデンドロンは、木に絡まって育つツタ植物だからフィロデンドロン=木を愛するものと名付けられたということです。

フィロジニーで思い出したことがあり、今回はそのことを書こうと思います。

好きと嫌いの関係

わたしは「好きを垂れ流す」をモットーに日々を暮らしています。すると、たまに驚く反応が返ってくることがあります。

例えば、わたしが自己紹介で「レズビアンです」と言ってびっくりするのは「じゃあ、男嫌いなんだ」と返ってくることがあることです。中には男嫌いのレズビアンもいるでしょうけれど、わたしは男の人が嫌いだからレズビアンなわけではありません。確かに、比較なしに認識するということは不可能ですから、比較したということではありますが、それが愛と憎しみという激しい対比の結果なのかというと、そこまでではありません。比較して選んだというより、気がついたというほうがわたしの記憶や感覚に適っています。

数式で表すと、

女好き≠男嫌い

ということになります。
このように物事には、対称となる組み合わせと対称にはならない組み合わせがあります。

「好き」と「嫌い」が対になっているのではなく、「好きなもの」と「好きではないもの」が対になっています。好きではないものの中に嫌いが含まれることは可能です。でもイコールにはなりえません。
数式で表すと、

好きなもの\全体=好きではないもの
嫌いなもの⊆好きではないもの

でしょうか。

イチゴ味のチョコレート

例えば、わたしはイチゴ味のチョコレートが好きですが、「好きじゃないもの」とは「嫌いなもの」から「好きなもの」までの、好きでも嫌いでもないものの詰まったグレーゾーンをすべて含みます。いまここで認識されたイチゴ味のチョコレート以外のすべてのものが、このグレーゾーンに入っています。ジャンルを区切ったら当然別のものが好きですし、別の瞬間に好きなものを聞かれたら、気分で別の好きなものを上げるかもしれません。こういう例ならイチゴ味のチョコレートが好きだからといって、それではないものがすべて嫌いなわけではないというのはおわかりいただけると思います。

ただし、イチゴ味のチョコレートが好きだという話をして、「じゃあ、カカオのチョコレートは嫌いなんだ」となったことはありません。

この差は何でしょうか。

ここにもアイデンティティが!

「女性が好き」というと「男嫌い」が出てくるのは、ここに、アイデンティティの問題が絡んでいるからではないかと思うのですが、間違っているでしょうか。少なくとも、わたしがそういわれてびっくりするのは「女性が好き」ということを遠回しに責められているような感覚があるからという気がします。

自分の言動に対して、他人が示す行動や態度で「ほめる、好意を示す、喜ぶ、いい噂をする、高い評価をする、追加を要求する」などはその人の自尊心を高めます。誰だって嬉しいです。その逆の行動や態度を目にしたときに、その人の自尊心は低くなります。相手が自分を「嫌う」を恐れるのももっともです。相手の「好き」に自分の属するグループが入っていないとき、それは「好きではない」に含まれた「嫌い」である可能性を示唆するものでもあります。

人によっては、はっきり意思表示をするのを避けるために、その可能性を相手に感じ取ってもらうという高等技術を使うことがあります。これは、嫌味や皮肉などストレートに物事を言わないし、それを理解できることを重んじるハイコンテクスト(前提となる文脈の共有率が高い)文化です。

わたしがカムアウトするのは、相手を敬遠する意図ではなく、ビジビリティといって存在を知ってもらう意図と、嘘をついたり隠したりするストレスをなくす目的がありますが、それも言わなければ誤解されても仕方のないことですね。

ハイコンテクスト・ローコンテクスト

わたしは言葉が裏の意味を持つやり取りが苦手です。

自分で反省することが多いのは、質問の意図が全く分からない質問にイラっとしてしまうことです。そこまで腹を立てる必要はなく、その質問の意図は何なのか丁寧に聞いたらいいだけなのに、説明がされていない部分を察することを強要されているように感じてしまうのは、わたしの心の狭さでしょうね。空気が読めないことをまだ自分に許しきれていないんですね。

数学では、条件が初めに提示されていない数式は解くことが不可能です。説明が十分でなければ間違った解を出しても仕方がありません。

わたしには数学やプログラミングのコードの世界の方がわかりやすくて楽ですが、答が一つしかないゆとりのない感じが好きではありません。おおらかなのに察する文化は苦手という、変な性格です。

ローコンテクスト文化では発話者の側に説明責任があり、受話者には推測の義務が少ないのが特徴です。誤解や事故は説明義務を怠った何かを発信する側に責任があり、受信する側には発信者の怠慢に責任を問う権利があります。

ハイでもローでもメリット・デメリットがあり、目的に適っていればスイッチして都合よく使えばよいのではないかと考えています。

複雑系は単純系の集合

ハイコンテクストなら複雑系だと感じます。ローコンテクストなら単純系だと感じます。複雑系はグレーゾーンが多く、受け手の情報処理能力に頼っています。情報処理能力は受け手の人生経験や知識によって大きく差が出ると思います。単純系は2極化した白黒の世界で、発信者は期待する答えを導くために受け手に条件などの情報を十分に与えたうえでイエスかノーで答えられるようにします。

わたしはどちらが優れているという話ではなく、単なる関係性の問題であると考えています。

例えば、人間が処理しきれない複雑で膨大な情報を処理できるコンピューターの世界は、1と0でできています。1は電流が流れます。0は流れません。このシンプルな仕組みをいくつも組み合わせると、複雑なものができるのです。2桁の1と0の組み合わせは4つあります。3桁になると8つ、4桁で16個です。こんな風にバリエーションを増やしていくことで、成り立っているのです。

  • 2桁
    • 00, 01, 10, 11
  • 3桁
    • 000, 001, 010, 100, 111, 110, 101, 011
  • 4桁
    • 0000, 1111, 0001, 0010, 0100, 1000, 1110, 1101, 1011, 0111, 0011, 0110, 1100, 1001, 1010, 0101

この仕組みはわたし達が住んでいる思考の世界も同じであるとわたしは考えています。ヘーゲルの弁証法でもaとaではないものという組み合わせから認知は始まります。旧約聖書でも天と地、光と闇から始まりますし、仏教でも般若心経には色不異空、空不異色、色即是空、空即是色というくだりがあり、空と色という基本形があり、その組み合わせの因果とか関係性によって浮き出る何かがこの世ということを説いているのではないかと考えるようになったからです。

結論
「好きの反対は好きと認識されていないものすべて(嫌いを含む)」でどうでしょうか?
極端になることを極端に避けないで極端にならずにいられたらいいですね。