ジェンダー平等の活動をしていると「差別」ということを考えざるを得ません。しかし、わたしは「平等」と「差別」を違うものとして捉えています。
ジェンダー平等と差別
差別を撤廃することを要求する対象と定義しています。差別を良くないとした場合は、差別をする他者に何らかの形で考えや態度を変えてもらう対策を考える必要があります。
どういうことが差別にあたるか定義し、そういった差別を禁じる法律を制定するなどは法律家や政治家が担うことでしょう。
自分の有形無形の利益のために相手の権利を軽んじ差別的な行為をしている人に、差別が倫理的に良くないからやめるように働きかけても、自分の何らかの利益を手放すのみならず、倫理的な非難を受け、それを認めざるを得ないので、どんな正論を言っても変えてもらうのはとても難しいと思っています。
だから、差別に絡んだことに関しては、法が必要なのだと考えています。
ジェンダー平等の平等
一方、わたしは平等を目指す対象だと考えています。ある状態が平等ではないと感じた場合は、平等になるために自ら努力して平等になるための努力をする必要があります。
平等になることを阻害する外的要因と内的要因を明らかにし、外的要因に働きかけたり内的要因を改善したりします。
外的要因には差別を受けるということも含まれます。
内的要因は自ら権利を放棄したりその状態に甘んじたりすることを言います。
何を目指すのか
わたしたちがジェンダー平等というとき、それは何を指しているでしょうか?
それは女性が何かをしたいと思う時に、その権利が阻害されず、保証されているということを目指していると思います。
つまり「機会の平等」ということだと思います。
機会の平等というのは、その機会参加の権利だけでなく、参加を拒絶できる権利が含まれます。
例えば、今の日本には女性にも選挙権があるからこそ、選挙権を棄権するということが可能になります。
歴史を顧みると、運動・活動と立法・行政・司法によって権利を主張し、いかに権利が侵害されているかを検証し、範囲を定義し、罰則などの対策を立てて、権利を守ることが必要であることがわかります。
内面的な阻害要因
もう一つ、機会が平等であるためには、与えられている権利を行使する側がそれを自覚している必要があると思います。
先日70年代のウーマンリブ運動に関わった世代の方とお話しする機会を得ました。
女性の権利獲得のために運動をしてきた先人たちが切り開いた道がどれほど険しいものであったか、今はどれほど恵まれているのかというお話を伺いました。
運動や活動を行い、司法に訴え行政を動かし、社会の認識を変えて権利を取り戻すことができても、女性がそれを行使できなければ絵に描いた餅でしかありません。
尻込みしていてはもったいないと思うのです。
ジェンダーギャップ指数はG20の最下位なのは日本人男性だけが悪いのでしょうか?
日本人女性は単なる被害者でしょうか?
高等教育を受けることを阻まれ、参政権もなく、家の外に出て働くことを禁じられ、発言することを抑制されていますか?
では、何がわたしたち女性を活躍の場から遠ざけているのでしょうか?
もしも可愛いや綺麗が好きなら、それらを諦める必要はないでしょう。
可愛くないと言われるのが怖いですか?
同性の嫉妬が怖いですか?
わたしは男勝りである必要もなく誰かより優れている必要もなく、自分の好きと得意と特徴を生かして、生き生きと伸び伸びと生きるだけでいいのではないかと考えています。
WE GiRLs CANでは、ジェンダー平等は差別をなくすなど外側を変えることと同時に、わたしたち女性自身が内面的に変わることの両面から実現されていくものではないかという考えをもとに、毎月勉強会を開催しています。
何がわたしたち日本人女性を社会での活躍の場から遠ざけているのか、一緒に内面的な阻害要因を考えてみませんか?